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【アラベスク】  第17章 来し方の楔



第1節 天国 [2]




 別にそれを不自由だと思った事はない。檻ではあっても、何不自由の無い豪奢な御殿だ。逆らいさえしなければ、自分は幸せに暮らしていける。
 魁流は、外の世界を知りたいとも思わなかった。
 特に小学生になって醜い争い事を学校で目にするようになってからは、外の世界との接触を、積極的に拒んでいった。
 グループを作り、意地を張り合い、陰口を囁く。小学生活も三年ほどを過ぎると、大人びた諍いも起こすようになる。優越感や劣等感を持ち、幼稚であるが故に悪い事だとも思わない。
 裕福な魁流の境遇を妬み、母親との関係を冷やかす。
「お前、マザコンなんだよな」
 親同士の会話を盗み聞きした同級生が、意味も分からずにせせら笑った。そんな嫌がらせを、魁流はそれほど嫌だとは思わなかった。ただ、非常に不快だとは思った。
 変だと思うだろうか? だが魁流には、虐められたくはない、などといった感情は沸かなかった。ただ、その行為そのものに嫌悪を感じた。虐められる存在が自分であるか否かなんて事は大した問題ではなかった。つまり、虐められるのが自分でなければ別に構わない、というわけではなかったのだ。
 虐められる存在を横目に、だが自分に危害が及ぶのを恐れてか、平然と無視をする輩もいる。魁流にはそのような感情も理解できなかった。ただそれは、虐められる存在が哀れだとか、虐めなどは許せないなどといった正義感ではなかった。
 見たくないと思った。虐める存在も、虐められる存在も。
 醜い争いなど、見たくない。
 嫌味や悪口を聞くのも嫌だったが、なにより、蹴られたり殴られたりする現場を目撃するのがなにより嫌だった。
 唐渓へ進めば、そのような現場は見なくても済む。
 魁流は、母親の勧めるがまま、唐渓中学へ進学した。
 蔑まされる存在が無いワケではなかった。だが、小学生の時のような、アカラサマな虐めは無かった。
 幸い魁流の家庭は、唐渓の中でも上位に位置する。父親は医者で、母親も上流階級出身。魁流が望まなければ、対立しようとする生徒はいなかった。それに、虐められたり除け者にされる人間は、大概は中途退学してしまう。
 目を閉じれば、耳を塞げば知らずに済む。
 唐渓へ進学してよかったと、心の底から思っていた。
 世の中には、それぞれに適した居場所があるのだ。不適切な居場所に迷い込めば諍いが起きる。だが、上手に住み分ければ、争いは起きない。
 そんな魁流にとって、織笠鈴は不思議な存在だった。見るからに、唐渓には不適切な存在だ。不似合いで、とても適応できそうにない。
 だが彼女は、何事もないかのように通っている。
「亡くなった母の希望だったのよ」
 鈴は唐草ハウスの縁側で語った。
「唐渓は、人間として成長するのには魅力的な材料のそろった学校だって。だから、私みたいな陰鬱な人間が世の中に適応していく術を身につけるには絶好の場所だって」
 そこで鈴は苦笑した。
「私は別に、世渡り上手になりたいなんて思ってるわけではないのにね」
「じゃあ、なんで唐渓に?」
「母の事は、好きだったから」
 生きていれば話し合う事もできたが、死んでしまってはそれもできない。
 そう言って肩を竦める相手に、魁流は首を傾げる。
「話し合う?」
「行きたくないと、自分の意見を言う事ができる」
 魁流は、自分の母も唐渓を勧め、そして自分もそれに同感だったと話した。鈴は力強く頷いた。
「良い事ね」
 秋の風が心地よかった。
「争わずに済むのは、良い事だわ」
 魁流は、ホッと安らぐのを感じた。
 この人とは気が合う。そう実感した。
 鈴は、争う事を好まない。ちょっかいを出されても、決して相手にはしない。ただ淡々と無視をし、淡々と流す。周囲はそんな彼女を薄気味悪く思うようになった。下賎だと見下すような態度や心持に変わりはなかったが、虐めても何の反応も示さないようでは面白味に欠ける。
 相手にするだけ時間の無駄さ。
 鈴の存在は薄くなった。一つ年下の小窪(こくぼ)智論(ちさと)がその存在に気づかなかったとしても、別に不思議な事ではなかったのだ。
 その状況は、中学を卒業して高校へ進んでも変わらなかった。
 彼女を見ていれば、醜い諍いを目の当たりにする必要は無い。
 魁流は、常に鈴の存在を求めるようになっていった。鈴も、それを拒否はしなかった。
「世の中がみんな私たちのようになればいいのに」
 彼女の言葉をもっともだと思った。
 世の中から、すべての争いが消えてしまえばいいのに。
 魁流は平和を願った。それは鈴の望みでもあった。だから鈴は学校でも、決して争う事はしなかった。
 だが、鈴が望まずとも争いが起こる事はある。醜く諍い、弱い者が虐げられる現状は変わらない。
 父親が勤める保健所に、毎日のように連れてこられる捨て犬や捨て猫。人間の我侭や自分勝手で世の中の隅に捨てられ、やがて命を奪われる存在。
「これだって、醜い諍い事だわ」
 鈴は唇を噛み締める。
「唐草ハウスに居る子たちだって同じ。ただ彼らは、対等な立場で争う事ができないだけ。相手が弱いのを良い事に、一方的に強者が虐げているのよ。捨てるのなら、最初から産まなければいいのに。ペットなんて、飼わなければいいのに」
 そんな苛立ちを胸に抱く彼女には、我慢ができなかったのかもしれない。
「使用人が捨てたに決まってるじゃない。価値のない犬のために誰がわざわざ」
 悪びれもせず口にする同級生の言葉に、思わず反論してしまった。彼女にしてはあまりにも珍しい反応だったので、その話はすぐに校内に広まった。もちろん魁流にもすぐに知れる事となった。
「馬鹿な事をしたと思っているわ」
 事件のあった日の夕方、鈴はいつものように唐草ハウスの縁側で魁流にそう切り出した。
「無視すればよかったはずなのに。なんでワザワザ言い争うような事なんてしてしまったのかしら」
「気にする事ないよ」
 魁流の慰めにも、鈴は苦悩したような表情を見せるだけだった。
 翌日、教室の鈴の机の上に、冷たくなった猫の遺骸が置かれていた。
「私のせいだわ」
 その日の夕方、鈴は自ら身を投げた。







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